Pages

Friday, October 8, 2021

<今こそノムさんの教え(20)>「縁に始まり、縁に終わる」 - 河北新報オンライン

 今年はどんな人間模様が繰り広げられるのか。プロ野球ドラフト会議が11日にある。東北楽天が歴代指名した中で交渉権確定の歓喜に最も沸いたのが、15年前の田中将大投手。北海道・駒大苫小牧高の主戦として夏の甲子園を沸かせた国民的スターを4球団による抽選で当てた。当たりくじに野村監督は「縁」と書き、指名あいさつの際に田中に贈った。今回の語録は出会いの大切さを伝える「縁に始まり、縁に終わる」。

球場を見学しマウンドでシャドーピッチングする田中投手=2006年、フルスタ宮城(当時)

 「俺を恨んでいるんだろう? 人生狂わされたって」

 東北楽天ベンチで野村監督が突然言った。あいさつに来た阪神・藤本敦士は当然きょとんとした。監督はプロへ導いてくれた恩人だ。「何言ってるんですか!」。藤本は笑って帰った。

 00年秋にさかのぼる。2年連続の最下位脱出を期す阪神・野村監督は即戦力を求めた。ドラフト会議前、社会人の日本選手権を見て、ふと目に付いたのが藤本(デュプロ)。内野守備が良く、監督と同じ京都・峰山高出身で後に中日で活躍する岡本真也投手(ヤマハ)から安打も放った。急きょ獲得を検討した。

 01年、野村監督は藤本、赤星憲広、沖原佳典の新人3人を含む俊足7選手を一組に「F1セブン」として売り出した。03年3人は18年ぶりのリーグ優勝を支え、栄光のV戦士になった。確実に成功の部類に入るプロ人生だ。

 しかし野村監督は責任を感じていた。「プロに誘うのは人買いのようなもの。特に20代半ばくらいで、社会人で身を立てている選手を指名するのは迷う。夢とか大金を突き付け、プロの競争に放り込むんだから。特に赤星(JR東日本)、沖原(NTT東日本)なんかはプロに来なくとも引退後の会社員人生が安泰だったはずだ」

 確かに1年目段階で藤本24歳、赤星25歳、沖原29歳と若くはなかった。それでも野村監督がプロに誘ったのは「一芸に秀でろ」の信念に基づき、特有の才能を見たからだった。

 赤星指名を検討した際、スカウトに「足が速いだけですよ。打てない」と言われ、野村監督は反論した。「何が悪い。同点の九回2死から四球で出た。『さあ盗塁してこい』と代走赤星を出す。足だけだって活路を見いだせる」

 現実になった。赤星は非力ながら野村監督の指導で転がす打撃を徹底。俊足を生かして出塁すると次の塁を陥れて01年盗塁王を獲得した。堂々の打率2割9分2厘で新人王になった。

 余談だが、ささいな難癖がついてプロとの縁が途絶えかけた名選手は意外といる。かつての東北楽天編成部長に聞いた話。

 その編成部長が他球団で同職にあった時、高校球界随一の大砲を狙った。しかし担当スカウトが「100キロ近いぽっちゃり体形でプロでは守備が厳しそう」とみて獲得候補リストから名前を外した。最終的には長打力を買ってドラフト上位指名したのだが。今では長嶋茂雄(元巨人)の通算444本に迫る本塁打数を誇るその選手とは?
 中村剛也(西武)。

 ほかにも古田敦也(元ヤクルト)が立命大時代の1987年、「眼鏡の捕手は大成しない」と指名回避されたのは有名だ。2012年最多勝の摂津正(元ソフトバンク)はJR東日本東北時代、スカウトに「制球力はいいが、150キロ出るとか突出した印象がない」と見られ、27歳までプロ入りを待たされた。

野村監督(前列中央)を囲む新入団選手。前列から田中(左)、永井(右)、後列左から中村、山本、横川、嶋、渡辺、金森=2006年12月16日、仙台市内のホテル

 「縁」は切り開くもので、人はいつ花開くか分からない、と思わせる逸話がある。

 「本人がどうしてもと言っている。何とか取ってくれないか。実力的にレギュラーは厳しいと思うが…」

 2004年秋、東北楽天の田尾安志監督は自身をプロへ導いた元スカウトから連絡を受けた。縁故採用のお願いのようなもの。田尾監督の大学の後輩でトヨタ自動車に在籍する24歳外野手がプロ志望しているという。「トヨタにいた方が人生が保証される」。田尾監督は思ったが、最後は本人の強い挑戦心を買った。

 当時のチームはオリックスと分配ドラフトを経たベテランの寄せ集め。そこに最下位指名でプロ入りした彼は奮闘し、05年開幕直後から先発出場した。だがやはり実力的に見劣りし、25試合出場止まり。田尾監督は1年限りで退任し「今後はもっとチャンスはないだろう」と見た。野村監督にも「無視」「称賛」「非難」(同名の第1回参照)の第1段階で評価された。

 それでも彼の野球に打ち込む姿勢は模範的だった。2軍首脳陣が高く評価し、度々1軍昇格を推した。けが人が多かった09年交流戦前後、彼は1軍で生き残りを懸け、自己最多の64打席に立った。それをピークに結局11年限りで引退。

 彼の「一芸」は人間性だった。リーダーシップ、気配り、意思の強さ。そこに指導者の素質を見た星野仙一監督の下、彼は引退と同時にコーチに転身する。長くもったいぶったが、もう誰かお分かりでしょう。

 平石洋介。

 東北楽天の生え抜きとして、19年に初の1軍監督を務めた。その就任時、田尾さんは「自分が球団に獲得を願い出なければプロに入れなかった選手が、まさか監督にまで上り詰めるとはね」と歩みをたたえた。田尾さん同様1年で退任したが、クライマックスシリーズの舞台も踏んだ。

 さて「縁」の一文字を贈られた田中はこう言った。「僕も縁を大切にしたい」。スライダーの「一芸」を持ち、野村監督と強い縁で結ばれたのはご存じの通り(第2回「マー君神の子不思議な子」第3回「困ったら原点に帰れ」参照)。弱小球団をもり立て、東日本大震災後の13年には日本一の立役者になる。ドラフト直後、覚悟に満ちた言葉はとても17歳とは思えない。

 「楽天に入れば本当の意味で挑戦者になれる」

 「下から、下から行くものの方が逆に強い。そういった意味で楽しめる」

 比類なきいちずな向上心こそが田中の最たる「芸」。ゆえに「神の子」たりえたのだろう。
(一関支局・金野正之=元東北楽天担当)

[のむら・かつや]京都府網野町出身(現京丹後市)。峰山高から1954年にテスト生で南海(現ソフトバンク)へ入団、65年に戦後初の三冠王に輝いた。73年には兼任監督としてリーグ制覇。77年途中に解任された後、ロッテ、西武で80年までプレーした。出場試合3017、通算本塁打数657は歴代2位。野球解説者を経て、90年ヤクルト監督に就任し、リーグ制覇4度、日本一3度と90年代に黄金時代を築いた。99年から阪神監督となるも3年連続最下位に沈み、沙知代夫人の不祥事もあって2001年オフに辞任。社会人シダックスの監督を経て、06年から東北楽天監督に。07年に初の最下位脱出し、09年には2位躍進で初のクライマックスシリーズ進出に導いた。監督通算1565勝1563敗76分けで、勝利数は歴代5位。20年2月11日、84歳で死去。

関連リンク

関連タグ

河北新報のメルマガ登録はこちら

Adblock test (Why?)


からの記事と詳細 ( <今こそノムさんの教え(20)>「縁に始まり、縁に終わる」 - 河北新報オンライン )
https://ift.tt/3uZkNI3

No comments:

Post a Comment