15歳で満州へ 戦争末期に入隊、10カ月で敗戦
福井市江尻ケ丘町の山脇深さん、96歳。シベリア抑留を経験した。 山脇深さん: 収容所から逃亡した日本人が(ロシア兵に)連れてこられて、みんなの前で射殺された。「お前らも逃げたらこういう目に遭う」と言われた 1939年、15歳の時に当時、日本最大の企業だった「南満州鉄道」に就職。「国内よりいい生活ができる」と教師に勧められ、当時の日本領・満州の清津(せいしん)に渡った。 山脇深さん: (満州鉄道)社員の生活必需品を販売する消費組合の“親方”だったんですよ。給料は良かったね 山脇さんは戦争末期の1944年10月、徴兵検査に合格し、陸軍に入隊。 朝鮮半島北部の会寧(かいねい)にあった陸軍病院で、衛生兵として兵役に就いた。 山脇深さん: 軍医のそばで1人1人、患者の容体を記録していた。病気で運ばれてくる人の方が多かった しかし、戦局は悪化し、入隊から10カ月後に敗戦を迎える。情報統制が敷かれ、敗戦の知らせは、まさに寝耳に水だった。 山脇深さん: 当時はやっぱり、日本が負けるという考えはなかったね
敗戦で一転…シベリア抑留の地獄の日々
敗戦を契機に、満州にいた日本人の運命は一転する。 山脇さんは侵攻してきたソ連の捕虜となり、シベリアへと連行された。捕虜は累計60万人、零下30度の極寒の地で労働を強制された。 のちに「シベリア抑留」と呼ばれる、地獄の始まりだった。 山脇深さん: (鉄道の)枕木が不足しているので、その伐採をしてほしいと言われた。ノルマは、直径1メートルの木を6本切ること。寒さがきつくて、防寒靴は履いたまま寝ていましたね。脱いでしまうと、寝ている間に足が凍傷になってしまう 抑留者たちは、激しい飢えにも苦しめられた。 山脇深さん: おかゆも何もくれない。飯ごうに半分くらいトマトかキュウリの漬物を2、3切れ。それをスープにして食べた。仕事のノルマが100%の人だけ(食べることができた)。あとは何も与えられない。松の実がなっているのを見ると、あいつら(ロシア兵)がみんなとって行ってしまう。100個ほどなっていても、1つか2つしか自分のものにできなかった 60万人が抑留され、10人に1人、6万人が命を落としたとされている。
からの記事と詳細 ( 「食事は漬物2、3切れ」“地獄”の始まり…捕虜6万人が命を落としたシベリア抑留の記憶 零下30度の地での過酷労働【福井発】(FNNプライムオンライン) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース )
https://ift.tt/3z8ML5D
No comments:
Post a Comment