時計愛好家としては珍しいストーリーの持ち主。きっかけは2008年のリーマンショックという。金融危機の影響でオーナーから放出された高級時計を海外の時計専門サイトで手に入れ、収集へとひた走ることになった。1990年代から2000年代にかけて作られた独創的なモデルは今や入手困難な限定品や特別仕様の逸品揃い。当時をリアルタイムに知る時計好きにとっては垂涎の的だ。
I.N.さん
自営業のIさんは現在58歳。時計との付き合いはおよそ30年になる。主に海外サイトを利用して特にレアモデルの収集に情熱を注いできた。ブランドよりも、追い求めるのはクロノグラフのムーブメント。手巻き2インダイアルという、クロノグラフ好きにとって最も魅力的なモデルがコレクションの主役になっている。
三田村優:写真 Photographs by Yu Mitamura
菅原茂:取材・文 Text by Shigeru Sugawara
[クロノス日本版 2022年3月号掲載記事]
「ほとんど海外のサイトから入手。稀少な時計を探す楽しみは尽きません」
自慢の逸品は、イタリアの収集家の放出品で、フランク・ミュラーが会社設立以前の独立時計師時代に製作した「ヤヌス」と呼ばれる伝説のワールドタイム機能付きモノプッシャークロノグラフ。オールドストックムーブメントを改造して11本が製作されたと伝えられているうちのシリアルナンバー0という超レアなプラチナモデルである。
時計愛好家のIさんが取材先に持参したのは、これまで収集した多くの時計から選び抜いた約40点。スイスで機械式時計が本格的に復活した1990年代から2000年代前半の頃の今や入手困難な往年の名作やレアモデルが中心だ。時計愛好家への道は大きく分けて3段階あったという。「若い頃はそれほど興味はなかったのですが、27歳ぐらいの時にオメガ スピードマスターの自動巻きモデルを買ったのが始まり。ただこのオメガ、調子の悪い個体にあたってしまい、知り合いに修理してもらいました」。
せっかくオメガを買ったのに、出だしからつまずいた感じだったというが、「それから2〜3年してブライトリングのクロノマットを手に入れたら、これはまったく問題なく、初めて時計に興味が湧きました」とIさん。1998年に30代半ばで独立した時には、オメガ「スピードマスター」やブライトリング「クロノマット」に加え、「マハラ」など合わせて5本以上を揃えるまでになった。まずこれがIさんにとっての第1段階である。
生産終了で入手困難な2点。いずれも独特のスタイリングが魅力的だ。パテック フィリップ「ネプチューン」(右)は1990年代半ばに発表された異色のステンレススティール製スポーティーエレガンスモデル。ケース径36mmで自動巻きムーブメントを収め、ベゼルやブレスレットの作りも非常に凝っている。パルミジャーニ・フルリエ「カルパ XL ミニッツリピーター」(左)は、かつて少数が作られ、今や目にすることが極めて稀なコレクターズアイテムだ。
「仕事の取引先にフランク ミュラーを所有している方がいて、興味を覚えました。自分も欲しくなり、最初に手に入れたのはカサブランカのクロノグラフです。ピンクゴールドのケースにブラックダイアルを組み合わせた、いわゆる黒金という押し出しの強いモデルでした」。これが第2段階だ。
フランク ミュラーの快進撃が続いていた1990年代半ばに登場した「カサブランカ クロノグラフ」は、もはや作られていないが、今なおファンの間で人気が絶えない伝説的なモデルだ。オメガからブライトリングを経て、ここでも時計のタイプとしてはクロノグラフを選んだ。フランク ミュラーとの出合いによって時計への関心を一段階引き上げられたIさんが時計愛好家への道に進むきっかけになったのが、2008年のリーマンショックと世界的な金融危機であったという。いったいどういうことか?
10本ほど所有するブライトリングの中でIさんが好きなモデルは1940年代の第1世代「クロノマット」(右)。手巻きクロノグラフの名機バルジュー175を搭載し、仕様違いのバリエーションも多い。腕時計にほとんど興味のなかった20代後半の頃に購入したオメガ「スピードマスター オートマティック」(中)は、1990年代に生産された自動巻きモデル。ステンレススティール×イエローゴールドのコンビ、ゴールドカラーのダイアルなど今やレアな仕様。1990年代に日本でも人気を博した今や伝説の「マハラ」(左)は、イタリアのジュエラーによるデザインの造形美をIさんは絶賛する。
リーマンショックの影響は時計業界にも及んだが、危機は短期間で去り、2010年代のスイス時計産業は史上最大の活況を呈することになる。では、Iさんにとってリーマンショックと時計はどう関係するのか。それは、自営業のIさん自身が苦境に陥ったのではなく「時計を手に入れる好都合な状況が生まれた」というわけだ。
「リーマンショックの影響で欧米で高額な高級時計をじゃんじゃん買っていたような富裕層が手放すようになったのでしょう。高価な時計が市場に放出され、比較的安価で手に入るようになりました。その頃は気軽に買える余裕も生まれていたので、時計収集に熱が入るようになりました」
コレクションの中で多数を占めるフランク ミュラー。64ページの「ヤヌス」同様に初期のラウンド型クロノグラフは「メカの魅力が味わえる素晴らしい時計」とIさん。名機ヴィーナス175を搭載する2インダイアルのクロノグラフ(右)は、フランク ミュラーで唯一ポーセリンダイアルを採用する。1993年から96年に約30本作られたが、シリアルナンバー0という貴重品。スプリットセコンドクロノグラフ7000R(左)はブランド創設の1991年に発表されたモデルのひとつ。これはプラチナケース、ブラックMOPダイアルという限定仕様。
ここからいよいよ第3段階だ。インターネットを活用して海外の業者から購入するようになり、1990年代から2000年代にかけての貴重なモデルを次々と手に入れることになった。「海外のサイトでは、日本では出ていないレアなモデルに出合うチャンスが多い」とIさんは、そのメリットを説明する。
まずはダニエル・ロートやロジェ・デュブイのクロノグラフを手に入れる。どちらもクロノグラフの熱心な時計愛好家にはおなじみのレマニア2310をベースに各ブランドがアレンジを施した手巻きクロノグラフムーブメントを搭載し、メカに関して共通性がある。ロジェ・デュブイは、ブランド創設初期の「オマージュ・バイレトロ・パーペチュアルカレンダー・クロノグラフ」や「シンパシー・トリプルレトログラード」といった極めてユニークなコンプリケーションも入手した。
フランク ミュラーの「トノウカーベックス」も多い。ケースにバゲットカットダイヤモンドを配したジュエリーウォッチ(右)で、宝石のセッティングに感銘を受ける。手巻きの小型クロノグラフムーブメント、バルジュー69を細身のケースに巧妙に組み込んだモデル(中)は、特別なヴィンテージ感を演出した傑作。センター2針スモールセコンドのモデル(左)は、ゴールドのケースとグリーンダイアルが大人の色気を感じさせる。3本とも、時計の雰囲気を引き立てるためにジャン・ルソーでストラップを製作。素材、カラー、ステッチにも気を配った。
手元に届いた時計は国内で整備や調整などを施すが「複雑機構の調整をお願いしたら、修理業者からお手上げと言われたこともありましたね」と笑うIさん。現行カタログにはもはや存在しない凝った複雑時計は、確かに時計職人にとって難物だ。
こうしてメカの魅力に取りつかれたIさんは再びフランク ミュラーの、それもブランド初期モデルに興味をそそられた。
「イタリアのフランク ミュラーのコレクターが放出したこの『ヤヌス』と呼ばれるワールドタイム・クロノグラフは特にレアです。プラチナケースで、シリアルナンバーが0。ポーセリンダイアルを採用するクロノグラフもやっぱり0。こちらのムーブメントは、ヴィーナス175のオールドストックがそのまま使われていますね」
ミネルバ関連のモデルも充実。タキメーターとテレメーターを備えた「モンブラン コレクション ヴィルレ 1858 ヴィンテージ クロノグラフ」(上右)は58本限定で2010年発表モデル。搭載するモノプッシャークロノグラフを装備する手巻きムーブメントはミネルバ製Cal.13-20CH系を現代的にアップデートしたCal.16-29 (下左)。同ムーブメントでひと足先に2007年に発表された58本限定モデルは、ケース径47mmの「モンブランコレクション ヴィルレ 1858 グランドクロノグラフ」(上左)。そしてミネルバ製Cal.13-20(下右)を搭載する、まさに本家ミネルバ銘で2002年にリリースされた「コレクション1858 クロノグラフ」(上中)も入手。
コレクションするほどに、手巻きクロノグラフの名作ムーブメントに傾倒するIさんだが、同じく「トノウ カーベックス クロノグラフ」に搭載された小型のバルジュー69も見逃さなかった。
手巻きのシンプルな2インダイアルのクロノグラフを一貫して愛好するIさんが続いて関心を寄せたのはミネルバだ。ミネルバは2007年にモンブランによる買収が完了し、モンブランの下でクロノグラフの名門としての技術の継承と発展が続けられているが、同年にミネルバのCal.13-20CH系を現代的にアップデートしたキャリバー16-29 を搭載し、モンブラン銘で発表されたモノプッシャークロノグラフをまず手に入れた。続いて同ムーブメントを搭載して2010年に発表された、ヴィンテージスタイルのモデルも自身のコレクションに加えた。
1995年に創設されたロジェ・デュブイ最初期の代表作は異例の曲線美を特徴とする「シンパシー」。最もシンプルな自動巻き3針の「シンパシー」(右)は、異形のケースにぴったり収まる極めてクラシカルなダイアルが印象的。センターの時針、分針、日付針の3本がレトログラードという「シンパシー・トリプルレトログラード」(中)は、意表を突く表示や、MOPとギヨシェ彫りが組み合わせられたダイアルが秀逸。レマニアの手巻きクロノグラフムーブメントCal.2310がベースのクラシカルな「シンパシー・クロノグラフ」(左)も時計愛好家垂涎の逸品だ。
「2014年のことでしたが、ある亡くなった方のミネルバの時計がまとめて10本アンティコルムのオークションに出品されました。すぐに入札しましたね」
落札に成功したクロノグラフのひとつは、ミネルバのCal.13-20を搭載して2002年に発表されたモデル。これでミネルバ時代のオリジナルとモンブランになってからの両ムーブメントが揃った。それだけでなく、振り返るとヴィーナス、バルジュー、レマニア、そしてミネルバといった古典的なクロノグラフムーブメントの名峰による山脈が見事に築かれていることに気付く。
これらの「シンパシー」のダイアルに記されている「BULLETIN D'OBSERVATOIRE」(天文台の証明)という文字は自社製ムーブメントがフランスのブザンソン天文台で精度検査され、クロノメーターに認定されたことを示す。高級時計の品質基準であるジュネーブ・シールも取得し、ムーブメントにその刻印が施される。デザインもメカニズムも通好みにして、各リファレンス28本限定というところが収集家の物欲を刺激してやまない。
これらクロノグラフ以外にも、パルミジャーニ・フルリエ「カルパ XL ミニッツリピーター」やエルメスのオートクォーツ「ノマード」WG限定モデル、パテック フィリップのSS製ブレスレットウォッチ「ネプチューン」、カルロ・フェラーラの特異なレギュレーターといったレアモデルを見せていただいたが、「欲しいものを書き込んだノートがありまして、買わなかったものについては、その理由などをメモしています」という。これまで拝見しただけでも見応え十分だが、逆にNGとしたモデルは何だったのかも知りたいところだ。
「今凝っているのは、高級時計ではないレアなアンティークウォッチですね。デッドストックや動かないものでもいいし、たとえ時計としての価値がなくても、ヤレ具合の雰囲気が良ければ手に入れます」といって最後に見せてくれたのはゾディアックやワイラー・ベッタの一見ジャンク品のような時計の数々。確かに海外の時計専門サイトには、そんな時計もわんさと出品されている。Iさんの時計愛好家生活はまだまだ果てしなく続くと見た。
からの記事と詳細 ( 時計愛好家の生活 I.N.さん「27歳ぐらいの時にオメガ スピードマスターを買ったのが始まり」 | 高級腕時計専門誌クロノス日本版 - クロノス日本版 )
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