太平洋戦争の開戦から8日で82年となる。当時18歳で軍用機の部品検査事務に従事していた長崎県諫早市の梅林ミツヨさん(100)は、真珠湾攻撃の一報を鮮明に覚えている。この日を起点に、多くの一般市民の命も奪った戦争とはどんなものだったのか。この秋、脳裏に焼き付いた記憶を直接、若者たちに伝えた。(美根京子)
「戦時中の生活について教えてもらえますか?」。10月上旬、梅林さんが入居する高齢者住宅。諫早市が企画した証言ビデオの収録のため訪れた同市在住の長崎東高2年の生徒(17)が問うと、車いすに座った梅林さんは、涙を流しながら口を開いた。
1941年12月8日の朝、小長井村(現・諫早市)の自宅で目を覚ますと、ラジオから臨時ニュースが流れた。「西太平洋において、アメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」。遠く離れたハワイでの「開戦」を告げる内容だった。
小長井でも味方の飛行機が飛び回り、物々しい雰囲気が漂った。大人たちはまるで戦争に勝ったかのように、「戦勝!」「万歳!万歳!」と声を上げていた。戦争を知らない18歳の心は、緊張感に包まれた。
しかし、まちの高揚は長くは続かなかった。
勤める会社は、東洋一の規模を誇った旧海軍飛行機工場「第21海軍航空
威勢良く開戦を伝えたラジオからは、「○○島玉砕」と劣勢ばかりが聞こえてきた。44年7月にはサイパン島が陥落し、恋人が島に渡ったという同僚は泣きながら仕事をしていた。
同年10月25日の大村大空襲では同航空廠で約300人が犠牲となり、駅前で遺体が積まれた2台のトラックを目にして「体の震えが止まらなかった」。帰りの列車が機銃掃射を受けたこともある。自宅にたどり着くと、明かりが漏れないよう電灯を風呂敷で包み、家族でじっと息を潜めた。
からの記事と詳細 ( 真珠湾攻撃始まり、大人は「万歳!」と声上げたが犠牲者ばかり…「どうして戦争始めたと」 - 読売新聞オンライン )
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