時に幻想的、時に無機質…。下水道写真家の白汚零さんが、普段、私たちの目に触れることのない世界を、作品とともにつづります。
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明治時代の初め、横浜、神戸の外国人居留地にれんが製の下水道が造られた。下水道建設を急いだ理由は、コレラが繰り返し流行したことだ。1882(明治15)年には、全国で死者約3万4千人、うち東京府内で5千人を超したと言われる。
明治政府は83年、公衆衛生を図り、東京府に対して上下水道網の整備を指示した。下水道の事業計画は、内務省技師の石黒五十二が設計案を作成。オランダ人技師、ヨハネス・デ・レーケの意見を仰ぎ、計画を固めた。
裏長屋が密集し、下水の通りが悪く、コレラの被害が大きかった神田地区を対象とした。神田下水は84年の第1期工事(現在のJR神田駅周辺)と、翌年の第2期工事(同駅の東側)が行われたが、第3期工事に国からの補助金交付がなされず、中止となった。
東京の近代下水道の始まり「神田下水」は、1994年に第1期工区の614メートルが都の文化財(指定史跡)となった。現在も供用されているため、見学はできない。
神田下水のように、断面が鳥の卵を逆さにした「卵形管」の形状は極めて合理的だ。平時は家庭からの生活排水のみだから、少量の水は細い方が滞りなく流れる。雨が降ると、大量の水が入り込む。上部が丸いことで、雨水を受け入れるキャパシティーがあるのだ。
関東大震災や第2次世界大戦をくぐり抜けた、れんがの卵形管は、非常に強い構造であるものの、現在は、円や四角の管をあらかじめ工場で造り、現場で組み立てる工法が主流となった。
れんがに限らず、石積みやコンクリート現場打ちの下水道はまだ残っており、建設当時の職人技がうかがえる。手作業のため、個性があり、私はこうした「年代物」を好んで被写体としてきた。(下水道写真家)
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しらお・れい 1965年高知市生まれ。米スクール・オブ・ビジュアルアーツ卒。80年代から各地の下水道や管路、下水処理場などを撮影する。写真集は「地下水道 undercurrent」「胎内都市」(草思社)。
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