『江川騒動』とは昭和53年、ドラフト会議前日の11月21日、浪人中の江川と巨人が〝電撃契約〟を結んだ事件が「はじまり」といわれている。
だが、筆者はつい「あぁ、〇〇がなかったら、大きく運命は変わっていたのに…」と考えてしまう。
昭和52年、11月7日、クラウンライター・ライオンズの江口球団社長が大阪市内のホテルで野球解説者の根本陸夫と会談。監督就任を正式に要請し、大筋で合意に達した。報道陣に囲まれた根本は渋い表情でこう語った。
「広島の監督を退いたときから、再びユニホームを着る意思はなかった。だが、そうも言えない状況になってしまった。気持ちにふん切りをつけるまでに時間がかかった」
根本は「オレは監督に向いていない」と分かっていた。それより「編成でチームを作りたい」―それが夢だった。根本の〝力の源〟は人脈。球界だけでなく政界や経済界、そして裏の世界まで含めると「数万人の人脈」といわれていた。
クラウンの監督要請も大学時代(法大)からの友人だった俳優の安藤昇から「クラウンの面倒を見てやってくれ」と懇願され、断れなくなった―というのが「定説」になっている。
根本のスカウト力には定評があった。ある球団のスカウトが有望な選手を見つけて自宅を訪れると、いつも「ついさっきまで、根本さんがいらしていたんですよ」と言われる。見ると玄関先や門の前には根本が吸っていたたばこの吸い殻がいくつも落ちていた―という。
昭和52年11月22日、ドラフト会議。本抽選で巨人の長嶋監督は「2番」。クラウンの中村オーナーが「1番」を引き当てた。クラウンは江川家から「行きたくない球団」の一つに名指しされていた。表向きの理由は「九州は遠い」だが、実際は不安定な球団経営と「黒い霧事件」(昭和44~46年)から残る〝黒い噂〟の存在だった。だが、根本には江川家を落とせる自信があった。
本抽選が終わり会議は昼食。午後1時半再開し、指名選手が発表された。
「クラウン、江川卓 法政大学」
もし、根本でなく違う人物がクラウンの監督になっていたら? クラウンは江川を指名しなかったのではと思う。そうなれば、江川は2番の巨人に―。
根本の監督就任。ギギギーと『江川騒動』へ向けて、運命の歯車が回り始めたのである。(敬称略)
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