1940年、外交官・杉原千畝が発給した「命のビザ」を握りしめ、約6000人のユダヤ難民が福井県の敦賀港に辿り着いた。そこからさかのぼること20年前に、もう一つの人道物語があった。 【画像】日本の救出されるまでの出来事を語る元ポーランド孤児たち 幼い頃に祖国から遠く離れたロシア極東のシベリアで、親と離ればなれになったポーランド孤児たち。飢えと寒さに苦しむ760人あまりの孤児は、日本に救出され、日本の地で静養し、祖国へと帰っていった。 100年前の事実を解き明かすため、取材を続けること6年。忘れられた歴史を今に伝える貴重な資料が次々と見つかった。そこからは“親のいない子どもたちを慰めようと各地から寄せられた善意”“伝染病に感染した子どもを救うため命を懸けた若き看護婦”といった私たちの知らない100年前の日本人の姿が浮かび上がってきた。 前編では、ポーランドの孤児たちが日本へ救出されるまでを追った。
忘れられた100年前の歴史
東ヨーロッパに位置するポーランドは日本と国交が結ばれて100年が経つ。 ポーランドは1939年に第2次世界大戦が勃発し、西からナチスドイツ、東からソ連に占領され、国が消滅する。1945年、ドイツが降伏して戦争が終結するが、その後はソ連の影響下に置かれ、長い間抑制を受けた。民主化を果たし、ようやく自由を手に入れたのは30年前のことだ。 2002年、平成の天皇皇后両陛下がポーランドを訪問された際、首都ワルシャワの日本大使公邸に高齢のポーランド人たちが集まった。彼らは、元ポーランド孤児たちで、両陛下に感謝の言葉などを伝えた。 しかし、この事実は長い歴史のうねりの中で人々の記憶から消えていった。 そこでまず、2002年に元孤児たちの傍らで通訳をしていた、日本人でポーランド在住のジャーナリスト・松本照男さんを訪ねることに。40年程前に独自に孤児の調査を始めた松本さんだが、当時ポーランド国内で孤児たちの消息は分かっていなかった。 人づてに孤児を探す地道な作業を続けたが、当時のポーランドはソ連の影響下にあり、孤児について語ることは“タブー”だったという。 松本さんとともに調査したポーランド国立特殊教育大学のビエスワフ・タイス教授は、「1945年以降のポーランドでは、シベリアを含め、ソ連を政治的に悪く言うことは禁止されていました。ポーランド孤児の話は、この禁止項目に触れていたのです」と明かす。 松本さんとタイス教授は、探し出した元孤児をこっそり集めて、松本さんの家で茶碗と箸でもてなした。すると、「箸を持って大喜びして、興奮して使っていました。彼らにとって、日本で経験したことは一生の大切な思い出だと思います」と松本さんは振り返る。 しかし、忘れられた100年前の歴史を直接知る人たちはもう亡くなっている。それでも取材を続けていくと、20年ほど前にポーランド孤児のドキュメンタリー映画を撮影したという人物に辿り着いた。 映画監督のエバ・ミシェビッチさんは、生前の孤児にインタビューして映画を作り、そのオリジナルテープを残していた。 また、当時の天皇皇后両陛下と面会した元孤児たちにもインタビューを行っていた。彼らの映像は、2002年の面会の2年前に撮られたもの。 エバ監督は忘れられたポーランド孤児の存在を広く知ってもらうために映画を制作したといい、「世界史の中でも珍しい話なので映画にしたかったのです。孤児たちが他界し、その足跡だけが残った今、記録する価値のある物語だったと思います」と明かした。 元孤児のインタビューを聞いていくと、彼らはなぜシベリアにいたのか、なぜ孤児となり、日本に助けられたのか、その足跡を辿ることができた。
からの記事と詳細 ( 手を差し伸べたのは日本のみ…歴史に埋もれた知られざる“ポーランド孤児”救出の軌跡(FNNプライムオンライン) - Yahoo!ニュース )
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