新宿御苑は今から75年前の1949年5月21日に国民公園として一般公開されました。御苑の歴史にとって重要な5月は「歴史探訪」をテーマにした連載記事をお届けします。
【第1回目の記事はこちら:新宿御苑の歴史を辿る~江戸時代から未来へ】
第2回目は明治時代の農事試験場のお話です。
明治時代に入り、大蔵省は、新宿御苑の前身となる江戸時代から続く内藤家の邸宅地と周辺地(合計17万8千坪、約59ヘクタール)を購入しました。その後、1872年(明治5年)に近代農業振興のための「内藤新宿試験場」を設立しました。
1873年には、試験場の業務が大久保利通を内務卿とする内務省の勧業寮に引き継がれました。場内には、牧畜掛、樹芸掛、農事修学所、製茶掛、農具掛、農学掛などが発足し、勧業寮新宿支庁が置かれました。
その目的は「内外の植物を集めて効用や栽培の良否、害虫駆除の方法などを研究し、良種子を輸入し、各府県に試験させ、民間にも提供する」ことで、国家規模での農業技術行政の取り組みが進められました。
(↑「太政類典・第二編・明治四年~明治十年・第百五十二巻・産業一・農業一」より「四ッ谷内藤新宿勧業寮試験場官庁地ヘ組入」@国立公文書館デジタルアーカイブ)
当時、植物は欧米からの種子や苗を購入するほか、ウイーン万国博や中国からも収集されました。試験場内には2,000種以上の植物が育成され、分類見本園も計画されていたそうです。
1874年に農業博物館が完成すると、種子や材木の見本や、肥料、紙、骨格標本、鉱物、土壌や、農業や動植物に関する書籍を中心に、音楽書なども幅広く収蔵されました。
また、蚕業試験掛が置かれ、現在の東京農工大学の工学部のルーツとなっています。
(↑左:ラクウショウの実、右:ヒマラヤスギの実)
外国産植物の試作も順調に進み、民間への普及を目指して優良品種が日本各地に送られました。ラクウショウやヒマラヤスギ、アメリカキササゲなどの樹種もこの頃に導入されたといわれています。
1874年にはサクランボ、ブドウ、ビワ、翌年にはオリーブ、リンゴなどが試験栽培され、各府県に配布されました。現在、各地方の特産品となっているもの多くあります。
(↑明治8年に建てられた旧温室)
試験場内の畑は、水田、穀物畑、野菜畑など7つの園に分かれていましたが、新たに桑畑や茶園も加わりました。また、110平方メートルの西洋式温室が完成し、日本の西洋温室の先駆けとなりました。
この頃には植物栽培だけでなく、鳥などの畜産の飼育や、養蚕、製紙、製茶などの試験研究が行われ、ジャムやピクルス、缶詰などの保存・加工品も作られました。試作された缶詰は、のちに製品として払い下げられるようになりました。
(↑明治43年に発行された新宿農事試験場の営業案内)
1877年、試験場内に獣医学、農学、農芸化学、農芸予科の4科を置いた本格的な農事修学場(のちに農学校に改名)が開校しました。ヨーロッパから講師を招き、指導者の育成が行われました。
翌年の1878年には駒場に校舎が移され、駒場農学校が設立されました。のちの東京大学農学部と、東京農工大学の農学部の前身となっています。
この頃には、試験場内の栽培植物も3,000種を超えていました。
新政府の農業振興政策拡充のなかで、内藤新宿試験場は幅広い役割の一部を他に移し、1879年(明治12年)、宮内省所管の「植物御苑」として新たなスタートをきることになりました。
(↑「公文録・明治十二年・第五十七巻・明治十二年五月・内務省二」より「勧農局所轄内藤新宿試験場宮内省ヘ引渡ノ件」@国立公文書館デジタルアーカイブ)
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