藤枝東高校の体育は一年中サッカー
(寺田)今日は静岡サッカーの歴史を紐解いていきたいと思います。まず藤枝市の話。藤枝市は今年、市制施行70周年、サッカーのまち100周年とうたっています。当時の志太中、今の藤枝東高校の初代校長の錦織さんという方がサッカーを「校技」に決めた1924年(大正13年)が起源になっています。当時の錦織校長はサッカーの運動量や連帯共同性などが教育に適していると考えた。同時に、当時はまだサッカーはマイナーで強豪校もなかったので、全国大会にも出場できる。サッカーの将来性に期待したんですね。
実は私も藤枝東高校のOBです。男子生徒は全員サッカーシューズを入学式で買うんですよ。
(山田)有名ですよね、それ。
(寺田)体育の授業は一年中サッカーでした。冬に少しだけ持久走をやったりするんですけど(笑)、みんな他の学校の「なんちゃってサッカー部」よりもボールをしっかり蹴ることができるんですよ。ご存知の通りサッカー部は輝かしい歴史を持っていて、OBには元日本代表の中山雅史さんや長谷部誠さん、ジュビロ磐田の山田大記選手らがいます。
「藤枝に追いつくには…」清水が取り組んだこと
ただ、「サッカーの街といえば藤枝じゃなくて清水だろ」っていう方もいますよね。
(山田)います、います!そこはちゃんとフォローしておきましょう。
(寺田)清水にも長い歴史があります。先に強くなったのは藤枝でしたが、藤枝に対抗して清水は何をしたか。小学生年代の強化に取り組んだんですね。「高校の3年間だけじゃ勝てない。藤枝に追いつくには日本一の少年団をつくるんだ」といって、次々と小学生のチームができたんですね。
今は当たり前ですが、当時は国内で初めての小学生のリーグ戦を創設して、指導者育成のコーチングスクールなどを開講しました。そうやって有望選手を育て、市の選抜チーム清水FCができた。今は選抜チームはどこにでもありますが、清水は全国に先駆けて地域をあげた育成システムをつくりました。
(山田)それはすごいですね。
エスパルスを支える市民球団の精神
(寺田)この流れが清水エスパルスにつながっていきます。清水エスパルスは昨年発足30周年を迎えたJリーグに1年目から参加し、「オリジナル10(テン)」と呼ばれています。その当時、磐田にはジュビロの前身となるヤマハ発動機サッカー部があり、藤枝には藤枝ブルックスというチームがあったのに、なぜ清水が最初の10チームの中に入ることができたのか。
市民球団の精神です。清水は前身のチームがなかったので、清水FCのように清水出身の選手を集めて一からチームをつくったんですね。それで、他の強豪クラブでプレーしていた清水出身の選手が故郷のチームに貢献しようと集まったんですよ。清水東高の「三羽ガラス」が有名ですね。
少年団時代から一緒にやってきた絆があったんですよね。まさに市民球団。地域に根ざしたクラブというのはJリーグの理念を体現しています。Jリーグはこういうチームをつくりたかった。清水はまさにその理想だった。
(山田)Jリーグと清水、それぞれの思いがマッチングしたんですね。
(寺田)オリジナル10の中で前身のチームがないのは清水だけなんですよ。昨年は最後の最後でJ1昇格を逃しましたが、今季こそJ1に復帰してその市民球団の原点に立ち返って選手を育ててほしいなと思うんです。
(山田)磐田もJ1に復帰して、楽しみですよね。
(寺田)磐田はベテラン遠藤保仁選手が引退したので、また若手を育てることが大切になってきますよね。
(山田)寺田さんが担当する藤枝MYFCはどうですか。
(寺田)最近取材に行ってきましたが、須藤監督は就任4年目で「J1を目指す戦力は整った」と言っていました。昨年の主力がほとんど残り、そこに武器を持った選手が加わった。藤枝MYFCはチームとして15周年。あらたな歴史をつくってほしいなと思います。
(山田)今回は、サッカー王国静岡の起源を知ることができました。今日の勉強はこれでおしまい!
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