観客に作品を楽しんでもらうだけでなく、映画の多様性を守るための場所でもある映画館。子供からシニアまでが集まる地域のコミュニティとしての役割を担う劇場もある。
本コラムでは全国各地の劇場を訪ね、各映画館それぞれの魅力を紹介。今回は福岡随一の観光地・中洲にある昭和レトロな映画館・大洋映画劇場を取材した。老朽化のため2024年3月末の取り壊しが決まっている同館の今の姿を記録し、社長の岡部章蔵に、父がフィルムを求めて奔走した戦後の記憶、思い出深い「E.T.」上映時のエピソード、クロージング企画について話を聞いた。
取材・
戦後の焼け野原で「これからは、面白おかしくなんかやろうや」
──来年3月で取り壊しになると聞いて、これは絶対に今の中洲大洋を取材しておかないと!と思い、来させていただきました。
ありがとうございます。
──建物の老朽化が理由とのことですが、取り壊すことはいつ頃から考え始めていたんですか?
だいたい5、6年ぐらい前から考えていて、テナントさんの問題も決着がついたんでこのタイミングになりました。9月に発表しましたが、お客さんから日々「残してほしい」って言われるので、だんだん壊したくなくなってきてますけど(笑)。
──私も福岡に住んでいた頃よく通っていたので同じ気持ちです……。まずは、映画館と岡部さん自身について教えてもらいたいのですが、社長になるまでにはどんな経緯があったんですか?
祖父と父がここを始めたのが1946年です。最初は木造だったんですけど、1952年に鉄筋コンクリートの今の建物に変わりました。そのあと私が携わるようになったのがだいたい28歳ぐらいのとき、3代目社長になったのは40歳だったので、社長になって30年ぐらいということになりますね。もともとうちは祖父が建築業をやってまして、戦争が終わって焼け野原だったここで、何か商売をやろうと考えて映画館を始めたそうです。
──いろいろある中で、なぜ映画だったのでしょう?
祖父が、海軍から復員してきた父とともに「これからは、面白おかしくなんかやろうや」ということで選んだみたいですね。最初の木造の建物は祖父が建てたんです。私は1951年生まれなんで木造の建物は覚えてなくて、記憶があるのは鉄筋になってしばらく経った中学生ぐらいから。物心付いたときからうちは映画館だったんで、いずれは私がやんなきゃいけないなとは思ってました。でも、特に映画に詳しい映画少年ではなかったですね。
──そうなんですね!
うちの父もそうだったけど、面白いアクション映画とかコメディとかを好むタイプ。小学生の頃、父がよく姉貴と一緒に映画を観に連れて行ってくれたんですけど、姉貴は
フィルムを取りに行くため、汽車で福岡から東京まで17時間
──東宝のコメディ作品がお好きだったようですが、大洋映画劇場自体は“洋画専門”で始めたと聞きました。
祖父と父から聞いた話ですけど、「戦争でアメリカに負けたんやから、これからはアメリカの時代やろう。洋画でいこうよ」と決めたそうで。当時、進駐軍の中にセントラル映画社っていうアメリカの映画会社9社の配給を取り扱う団体があって、父がそこと交渉をして「映画を配給してください」と頼み、それで1作目に決まったのが
──個人館を作ったばかりで交渉しに行くバイタリティがすごいですね。
さすがにツテがあったとは思いますけどね。当時は1週間ごとに映画が変わりよったんで、1週間か2週間おきに東京までフィルムを取りに行ってたんです。うちの父が「取りに行くの大変だから送ってくれ」と言ったら「ダメだ、治安が悪くて送ってる最中にフィルムがどこに行くかわからないから取りに来てくれ」と。そういう生活が1年近くは続いたと言ってましたね。毎週、終わった作品のフィルムを持って行って、新しい作品のフィルムを持って帰ってくるんですが、当時は汽車で福岡から東京まで17時間ぐらい。ずっと乗りっぱなしだったそうです。
──すごい時代。でもそれほどの思いでフィルムを手に入れないと、福岡にいる人はアメリカの映画を観られないわけですもんね。
1年ぐらい経つと治安がよくなってきて送ってくれるようになったんですけど、上映する作品はアメリカの会社のほうから「最初はこれ、次はこれ」ってどんどん決められとったみたいで。今とは違ってこっちから選べなかった中で、たまたまタイミング的に最初の作品がチャップリンになったんです。
──そうしてしばらくはアメリカ映画だけを上映。今のように邦画もヨーロッパの映画も上映するようになったのはどんなきっかけが?
鉄筋に建て直した1952年頃、川縁にあった大映さんの映画館(福岡大映劇場)も建て直すことになって、その間に大映さんでやっていた邦画が上映できないからうちでやってくれと頼まれたんです。だから、リニューアルオープンのときは
──近所の映画館同士が協力し合うことが驚きです!
そういう横のつながりはありましたね。シネコンはどこに行っても同じ映画をやってるけど、当時は映画館ごとに別の映画しかやってないんで、ライバルという感覚はなかった。映画の取り合いはしたかもしれないですけどね。その後も独立館として営業していたんですけど、1970年ぐらいからかな? なかなか大手と映画を取り合うのが難しくなってきたので松竹のチェーンに入ったんですよ。だから、たまにはあっちの映画がいいとか交渉はしますけど、基本は東京で松竹がある程度番組を編成してくれていました。
「E.T.」は半年のロングラン「座れませんよって言っても『よかよか』って」
──今まで、ここで上映して印象的だった映画はありますか?
一番記憶に残っているのは「
──「E.T.」を観に来るお客さんだと、年齢層も広そうですね。
そうですね。当時はまだ吹替版がなくて全部字幕版だったけど、映像だけ観ても楽しめるから、小学校低学年の子供も来ていました。忙しかったですね。チケットを買うお客さんに並んでもらい、その反対側に、次の上映チケットを買って待っているお客さんが並んでいて。チケットを売るときに、座れませんよって言っても「よかよか」って(笑)。「E.T.」のほかには「
──そういった歴史も刻まれている老舗の映画館という印象なんですが、岡部さん自身は大洋映画劇場をどういう存在だと捉えていますか?
今は中洲にうちしか残ってないんで、昭和を感じることのできる映画館というか、シネコンにはないレトロな雰囲気を楽しんでいただければなと思います。
──お邪魔している社長室に置いている映画グッズも、ワクワクします!
グッズは親父が集めたものなんですよ。それはテレフォンカードで、映画の宣伝用に作られた非売品なんです。少しは値段が付くかな、なんて(笑)。
──いやいや、大事にしてくださいね!(笑)
あの“キングコング”は、(1976年の)リメイクのときに「宣伝用に飾ってください」と配給からもらったもの。バットマンもあるし、東宝の方からもらった「椿三十郎」の
──長年この地で続けてきたからこそですね。スクリーンは4つあり、特に広い大洋1の椅子に初めて座ったときは「こんなにふかふかな映画館あるの?」と驚いた記憶があります。
もともと下の階に1館と、4階に1館だけだったんですけど、平成に入る頃ですかね? 4階の300席の劇場を150席と80席の2つに割って、隣の事務所があったスペースに50席の劇場を作り、計4スクリーンになりました。大洋1の劇場の赤い椅子はフランス製のキネット社というところのものなんですけど、ずっと座っててもお尻が痛くならないですよって言われて、ならそれがいいよねと思って選びました。
──あと、ロビーにいっぱい映画スターたちがいるじゃないですか。これはなぜ作り始めたんですか?
こんなのあったら面白いよねと思って。チャップリンの看板や、真実の口、チャップリンが振り返ってる絵が描かれたドアもあります。チャップリンの作品でオープンしてるので、そのあたりをメインにちょっと遊びで作ってみたんです。
映画は娯楽ですから、楽しくないとね。
──スターたちがお出迎えしてくれることに最初はびっくりしましたけど、これは建物を取り壊しても残しておいてほしいです。来年の4月以降はどうなるのか、現時点で何か決まっているんですか?
まだ検討しているところです。“閉館”って言葉は使ってないけど、次できるかどうかは……今なかなか映画興行も厳しい時代になってきていますので、そのあたりを考えている状況。どちらにしても、今みたいな劇場はもう作れないと思いますね。可能性を求めて、採算さえ合えばやりたいなと思っています!
──なるほど。これから3月末までに何か企画は考えているんでしょうか?
スタッフとクロージングの映画を選んでいて、今映画会社さんと交渉して、権利の問題とかを詰めているところ。3月に入った頃から、4スクリーンのうち1スクリーンぐらいを使ってやれたらなと思ってます。候補としては「ボディガード」は入れたいなと。あとは邦画だと、中洲なんで「
──3月までの封切り作品も公開しながら、クロージングのために名作も上映してくれるんですね。
今のところ(クロージング企画は)1000円興行でやろうかなと思っています。来年の3月までなので、久しく大洋映画劇場に足を運んでないなというお客さんには、もう1回、最後に観に来てほしいなと思います。映画は娯楽ですから、楽しくないとね。
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