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Tuesday, December 27, 2022

日本のベンチャーキャピタルの黎明期 投資のしくみの始まり - 事業構想オンライン

内閣府は2023年度(令和5年)、スタートアップ支援に対して総額1兆円に上る予算を計上した。スタートアップを金融サイドで支えているのは、リスクの高い創業期から投資を行うベンチャーキャピタル。黎明期から日本のスタートアップを支え続けてきたベンチャーキャピタリストの歩みをシリーズで辿ってゆく。

連載シリーズ開始にあたって

今回から、日本テクノロジーベンチャーパートナーズ(NTVP)の村口和孝氏のスタートアップ投資に賭けた半生を連載していく。村口氏は、日本最大手の日本合同ファイナンス(現:JAFCO)勤務を経て、日本でまだまだ欧米のようなベンチャーキャピタリストの参画による本格的なベンチャープロジェクトの出現が少ない状況下、1998年に投資事業組合法(中小企業等投資事業有限責任組合契約に関する法律)に基づき日本で初めて個人の無限責任組合員(ゼネラル・パートナー;GP≒ベンチャーキャピタリスト)が運営するベンチャーキャピタルファンドを組成した。

これは、個人及び基金・機関投資家を主体とする、日本では新しい形の「独立性の高い」投資事業有限責任組合として企画されものだった。なぜ、ベンチャーキャピタルの主体が企業ではなく個人(ベンチャーキャピタリスト)であることが望ましいか? 欧米では当然であった「スタートアップ」(組織形態というより「状態」に近い)ではなく日本では「ベンチャー企業」という呼称が使われたのか? 村口氏はベンチャーキャピタリストとして、「Change the world」を志す起業家だけではなく、日本の社会・経済・金融のその時々の状況とも向き合ってきた。初回は、村口氏が独立前、JAFCOで活躍する時代の背景を概観する。

日本におけるベンチャーブームと
リスクマネー供給

これまでわが国に、「ベンチャーブーム」と称された時期が4回あった。しかし、今回取り上げる1970年代、1980年代、1990年代の3回のベンチャーブームは、スタートアップを対象とするものとはいえない。

1970年代に最初のブームがあり、一度は多くのベンチャーキャピタルが設立されたが消えていった。1980年代に強化されたベンチャー振興策を梃子に第二次ベンチャーブームが到来した。政府は店頭市場の改革によって、新興市場の育成を図った。このような動きの中で、再び金融機関によるベンチャーキャピタルの設立が相次いだ。更に当時の通商産業省は、政府資金を活用したベンチャーキャピタル投資に取り組むなど、新たにベンチャー企業に対するリスクマネー供給を促進する政策を実行した。

1993~1996年にかけては再々度マスメディアにおいてベンチャー推進が活発に論じられた時期であり、第三次ベンチャーブームとも呼称されている。1994年、経済対策閣僚会議で決定された「総合経済対策」においては、新規産業の創出を支援する政策が盛り込まれた。1989年に特定新規事業実施円滑化臨時措置法(新規事業法)の下、政府系ベンチャーキャピタルの新規事業投資株式会社による投資が実施されていたが、これが更に拡充された。

1995年には新規事業法の認定企業に対してストック・オプションの発行が認められることになった。同年、中小創造法が施行された。同法に基づき各都道府県が中心となり出資し設置されたベンチャー財団はベンチャー企業に直接投資するほか、地域のベンチャーキャピタルに投資資金を預託し、ベンチャーキャピタルが社債等を引き受ける際に債務保証を行うことができることとなった。

このようにスタートアップを取り巻く環境は、その当時の経済・産業の状況や政策に強固に関連してきたことがわかる。

スタートアップとは違う
「ベンチャー企業」の定義

本題に入る前に、「新しい事業の始まりの段階」の呼び方について検討したい。これまで、「ベンチャー」という言葉を用いてきたが、最近まで、わが国では欧米で一般的に使われている「スタートアップ」という用語が定着していなかった。あたかも大企業、中小企業とは別の第三局としての「ベンチャー企業」あるいは「ベンチャー・ビジネス」が存在する印象が強い。スタートアップとは、ゼロ・トゥ・ワンと表現されるように、個人あるいは個人のチームが急速に業を起こすことを企画・行動し、組織化・企業化してゆくプロセスあるいはその組織をいう。しかし、日本では、ながらく二重構造論をベースにした大企業と中小企業との格差是正が中小企業政策の課題であり、それとは区別するために中小企業政策を踏まえ苦肉の方策として「ベンチャー企業」、「ベンチャー・ビジネス」という用語が当てられ定着してしまった。まずは中小企業政策との関係で、ベンチャーキャピタルと取り巻く状況を見てみることとする。

中小企業政策のはじまり
終戦から中小企業庁誕生まで

終戦直後の日本経済はゼロからというよりむしろマイナスからのスタートであった。戦争中はあらゆる資源が軍需に向けられたために、企業の設備投資が行われず、生産設備はほとんどが老朽化していた。生産するための原材料、燃料の絶対量も不足していた。海外からの引き揚げ者、軍需工場の閉鎖に伴う失業者が街にあふれていたが、彼らが企業に雇用される可能性は極めて限られていたため、自ら小規模な事業を起こすものも多くいた。経済全体は低調であったが、企業数は増大していた。このような状況の中で政府は、1946年12月、いわゆる傾斜生産方式を導入した。資材、金融などの資源を特定の基幹産業に集中し他産業への波及効果を狙う意図があった。

この時期には、財閥(産業界)と軍部との強い繋がりが戦争勃発の一員と判断したGHQの指導の下、独占禁止に基づく行政が強力に進められており、中小企業の組織化政策の道は封じられていた。1948年に中小企業庁設置法が制定されたが、中小企業庁は中小企業者の求める資源を確保することができなかった。また、戦前からの有力な政策手段であった組合制度を使った組織化政策も企業結合を極度に嫌うGHQの方針によって封印され続けることとなる。

弱者救済型の
中小企業基本法の制定

第二のエポックは、1963年の中小企業基本法の制定であった。前述のように、戦後大企業は雇用の受け皿となりえず、結果、自ら起業したものが多数いた。それが、1964年に為替制限と輸入制限はできなくなり大企業も中小企業も厳しい国際競争にさらされることになったのである。一言でいえば当時の中小企業は「too small、 too much」である。規模が小さすぎて、多量生産を前提とする経営合理性が上手く機能しない。一方で、雇用の受け皿として大きな役割を担っており、非効率ではあるが潰せない。だから、セーフティーネットのような政策で補い、資本の充実、設備の近代化などを支援して、「保護」しながら、徐々に経営効率改善を目指していこうというものであった。傾斜生産方式によりいち早く経営効率化を果たした大企業と中小企業との二重構造問題が「中小企業問題」として認識されていたことも背景にあった。

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